|
山本 篤(やまもと あつし、1982年4月19日 - )は、片大腿義足の陸上競技選手。静岡県掛川市出身、スズキ浜松アスリートクラブ所属、 IPC 陸上競技クラス T42 〔(原文は表)〕。身長 167cm 、体重 59kg 〔宮崎恵理『Tarzan』No. 674(2015年)、p. 102。〕。 2008年、北京パラリンピック走り幅跳びで銀メダルを獲得した日本の義足陸上競技選手初のパラリンピック・メダリスト。2013年、2015年、 IPC 陸上競技世界選手権大会走り幅跳び金メダルの2連覇、2010年、2014年、アジアパラ競技大会 100m 金メダルの2連覇等で活躍。クラス T42 の 100m 、 200m 、400m 、走り幅跳び(旧 F42 )のアジア記録、日本記録を樹立、 400m リレー、 1600m リレーのチームで日本記録を樹立した。 ==経歴== 1982年4月19日、静岡県掛川市に生まれる。スポーツが好きで、小学校の頃は野球、中学校ではバレーボールをしていた。掛川西高等学校バレーボール部に所属し、垂直跳びで 1m を超えるジャンプ力を持っていたが、高校2年生春休みの2000年3月、スクーターで事故を起こし左脛骨を粉砕骨折。入院後に壊死が始まり、手術で左足を大腿から切断して失った。義足を作ったことで興味を持った義肢装具士を目指し、高校卒業後、名古屋の日本聴能言語福祉学院義肢装具学科に入学。ここに当時学生として在籍していた義足スポーツ研究者の稲葉から陸上競技を勧められた。〔平山譲『パラリンピックからの贈りもの』(2012年)、pp. 80-87。〕〔大阪障害者スポーツ指導者協議会『協議会だより』第58号(2008年)、pp. 2-3。〕 2002年5月、練習もなく初めてエントリーした日本身体障害者陸上競技選手権大会では 100m 17秒36。この年の夏休み、稲葉とともに合宿で陸上競技用義足の練習を開始すると一週間後には劇的に記録が伸び、9月の関東身体障害者陸上競技選手権大会では当時の日本記録13秒86にあと0.2秒と迫る14秒06で優勝した。2003年11月、全国障害者スポーツ大会 100m 13秒83の大会新記録で日本記録を上回ったものの、2004年3月のアテネパラリンピック最終選考会では標準記録が切れず、パラリンピック出場を逃すことになった。義肢装具士の国家資格を取得し就職も決まっていたが、パラリンピックを目標に陸上競技を続けることを決め、2004年4月、パラスポーツの選手ながらスポーツ推薦で大阪体育大学体育学部に入学。健常者と同じ陸上競技部に所属し専門的な理論とトレーニングにより 100m、走り幅跳びの日本記録を次々と塗り替え、世界ランキング上位の実力を身につけた。特に走り幅跳びでは、踏み切りの足を健足から義足に変えることで大幅に記録を伸ばすことに成功した。 2008年、スズキ株式会社に入社。日本代表となった北京パラリンピックでは、100mで5位に入賞、走り幅跳びで銀メダルを獲得し、日本パラリンピック陸上界の「義足アスリート」としては初のメダリストとなった。北京大会の後、将来は指導者になることも考え、大阪体育大学大学院体育学博士課程に進み運動力学を研究。自らの動作を科学的に分析して走りを修正し、義足に改良を加えながらさらに自己が持つ日本記録を更新し続けた。 2012年のロンドンパラリンピックでは日本陸上チームのキャプテンを務め、 100m で6位、200mで8位、走り幅跳びで5位に入賞。2013年の IPC 陸上競技世界選手権大会では走り幅跳びで金メダルを獲得。2014年のアジアパラ競技大会では、 100m 、走幅跳、 400m リレーで金メダル、 200m で銀メダルと4種目でメダルを獲得する活躍を見せた。2015年の IPC 陸上競技世界選手権大会では、走り幅跳びで再び金メダルを獲得、2連覇を達成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本篤 (陸上選手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|